食、そして住へ。
調和と共存の心をもって、
しなやかで丈夫な生命の芯を繋いでいきたい。
「おいしいごはんを食べるだけじゃ、だめなんだ…」。“mana foods OHANA”を閉めて、松野 隆好は新たな挑戦を始めていた。それまで、料理一筋で働いてきた彼が次に見定めたのは、家。食を囲む居心地のよい空間づくりである。揖斐川の上流にある古民家に移住するとき、彼の心を大きく揺さぶったのは、天井に渡されたダイナミックかつ堂々とした存在感のある梁(はり)だった。「その梁を一目見て、すっかり大工さんの仕事に魅せられてしまって。それまで日々こつこつと料理の仕事をしてきた僕には、とてもスケールの大きな仕事にも感じました」。松野は、植物性100パーセントのヴィーガン料理を提供する店として多くの人に愛された“mana foods OHANA”を営み、飲食ビジネスの矛盾に苦悩しながら、店を閉めることになってからも、ひたむきに自らの理想を追求し続けてきた。そんな彼だからこそ、それまでの食に関わるキャリアをふまえ、今度はそれを取り囲む住まいを見つめ直そうとしたのだろう。そして今、食と同じく自らの手でその理想を創り出すべく、オーガニックな住のスペシャリストである山納銀之輔に学びながら、犬山の地で日干しレンガによる住まい作りに汗を流している。
弁当屋の息子として生まれ、迷いなく料理の道へ。
しかしそこは飲食ビジネス迷路の入口だった。
「両親が弁当屋を営んでいて、こどもの頃から野菜を切ったり、手伝いをしながらごく自然に料理に関わっていました。それをずっと続けていたから、弁当屋を継ぐという気はなかったけれど、進路を考えるときには、自分には料理しかないなと思っていたところはありました」。松野は迷うことなく調理師専門学校に進み、卒業後は「自分自身の中では、中華料理が最も身体にいい料理だ」と感じ、中華料理店に勤め始めた。 中華料理は、数多くの調味料、スパイス、野菜から肉魚などの素材、味付けのベースとなるスープを店に常備して作ることになる。しかし、それらを全て揃えるコストをまかなえる飲食店はそうそうない。「実際は、手速くうま味を出すための化学調味料が欠かせなくて。これが現実なんだと思い知りました」。自身の理想とはかけ離れた厨房の景色。しばらくして勤めた中華料理店を離れた後、松野は名古屋、東京、ハワイと渡りながらそれぞれの地で飲食店立ち上げの仕事に関わる。しかし、どこにいても、表向きにはおいしさと素材へのこだわりをアピールしながら、いかに原価を下げ利益を上げるかを追求する飲食ビジネス業界の矛盾を突きつけられ続けた。精神的にも辛い状況の中、松野は京都でヴィパッサナー瞑想に出会う。「奥さんともそこで出会ったんです。ベースの仏教にある“不殺生”の精神を学んでから、菜食をやっていこうと決めました」。
家族と共に食の理想を追求するも、一向に見出せない飲食ビジネスの光。
理想とこだわりの裏に見え隠れする対立の闇。
松野は各務原で”enjoy cafe OHANA”を始めた。植物性素材のみを使い身体への負担が少ないと言われるヴィーガン料理をおいしく楽しんで食べてもらい、来てくれた人を元気にしたい。質の確かな素材でつくる、多くの人の身体と心を喜ばせるおいしいヴィーガン。かつて苦悩した中華料理店での経験からも得られるヒントはたくさんあった。菜食となると、中には物足りなさを感じる人もいることを考え、素材の力を最大限に生かして味付けやボリュームも工夫した。“OHANA”とはハワイの言葉で、“家族”の意。その名の通り家族で協力しながら日々働き、店を訪れる人たちはそのおいしさに驚き、喜び、そして笑顔で帰っていく。一見理想の光景のようだが、素材選びから妥協しないために料理を出せば出すほど赤字がかさみ経営そのものは立ち行かなかった。2年半ほどして店を閉め、その後東日本の震災を経て実家の穂積で“mana foods OHANA”をオープンするも、1年半ほどで閉めることに。「素材から本当にこだわって作っていたし、もっと価格を上げてもいいんじゃないかとも言われたけれど、今思うとそのときは自分も価格競争の波にのまれていた気がします」。また、オーガニック、ヴィーガン、ローフード、玄米菜食など、それぞれの立場や考えにこだわりを持つがゆえに、互いに批判したり対立してしまう状況にも松野は複雑な思いを抱いていた。「それぞれに補え合えたら一番だと思って、店では良いところを組み合わせた料理やメニューを出していました。敵対しても良いことは何もないし、食事って本当は、これは良くて、あれはだめって頭で考えてするものではないと思っているので」。
食を取り囲む住への関心と、住まいの師との出会い。
自分で創り出す喜びを感じながら、継承する大切さを思う。
店を閉めた後、松野の心に浮かんだのは、食を取り囲む住まいへの関心だった。身体が必要とするおいしいものを感謝していただく、それで十分に幸せなことだが、居心地のよい空間で食べることができたら、もっと身体も心も健やかでいられる。自分の店の改装などを通して少しずつ膨らんでいた思いが、揖斐にある古民家への移住で確たるものになった。店を閉めた後も料理教室やケータリングの仕事を続けながら、左官の技術や大工仕事を働く中で学んだ。それまでの料理とは全く違う、身体や技の力の世界。新鮮さを感じながらも、厳しい上下関係や職人間の縄張り意識など荒々しいやりとりに心を傷めることもあった。ちょうどその頃松野の周囲で、ある人物の名がよく話題に上っていた。山納 銀之輔、自然素材で家を創るスペシャリストである。気になった松野が共通の知人に連絡先を聞いて直接連絡を取ると、山納は自らすぐに彼の家までやって来た。家創りの技術はもちろん、フランクだが真摯でときにチャーミングな人柄、そして周りにいる仲間の温かさにも魅了され、松野はすぐ山納についてその仕事を教わることに決め、共に犬山の地を訪れたのだ。理想とする住まいの師を見つけた松野は、同時に自らも料理の師として、自分のもつ技や考えを人に伝えていくことの大切さを強く感じるようになっていた。一人でも多くの人が、そしてそのこどもたちが、健やかに笑顔で暮らせる未来を創る。そのために自らの理想を形にし、次の世代へ受け継いでいく。松野の壮大な挑戦はまだ始まったばかりだ。
「震災と原発事故があって、“mana foods OHANA”をオープンしたとき、放射能に負けない身体作りを食事からしていきたいと思い、看板やメニューにもはっきりと書いていました。自分たちは、こどもたち、そのまたこどもたちに何を残していくんだろうって。今のままでいて、これからの未来もみんな健康で、本当に笑顔で暮らせるのかなって。誰かを悪者にしたり、考え方の違う人と争っていても何も変わらない。まずは丈夫な身体をつくって、仲間と笑顔で協力しながら何かを成し遂げていきたいんです」。かつては飲食ビジネスの迷路に迷い込み、その出口を見出せずにいた松野だったが、今彼の心には幾筋もの光が差し込んでいる。社会的にも食への不安や関心が高まる中で、かつて店に来てくれた人たちや、その口コミの評価から興味をもつ人たちが彼の食の技や考えを必要として続々とやって来る。「今になってあの大変だった日々が花開き、実を結びつつある気がします。未来は一人では変えられないし、気付いた人から実践してやっていくしかない。自分たちのことだけじゃなくて、七代先の子供達に何を残して、どんなバトンを渡せるのか。少なくとも、自然に寄り添い調和し、共存できる世の中にしていきたいと考えています」。